2014年1月21日

教育者による暴力は未来を滅ぼす


結論から言おう。今まで一度でも生徒に対し暴力を振るったことのある教師は、被害者に謝罪し辞表を提出するべきだ。


昨今、教育現場における問題が大きく報道されている。
大津市中2いじめ自殺事件、大阪府立桜宮高校バスケ部体罰自殺事件、浜松日体高校男子バレー部での体罰事件……と、例には困らない。

教師の「資格」とは何だろうか?
教員免許という意味ではない。教師として……教育者として……1人の人間として、教師に求められるものは何だろうか?

先ほど例に上げた事件に共通することは、「教師が加害者である」ということだ。
大津市中2いじめ自殺事件(以下「大津いじめ事件」とする)においては教師が直接危害を加えたというよりは、看過し助長した、というのが正しいが、それでも教師の責務を鑑みれば「加害」と言うに等しいだろう。
教師のみならず、全ての「大人」は「子供」たちが「手本」にする存在だ。だから、最も子供たちに接する人たちである親や教師は(少なくとも子供の前だけでは)「手本」になれる人でなければならない。もちろん、親や教師とて人間であることは事実だし、間違いを犯すときもある。その時は間違いを訂正し、もし誰かに被害を与えてしまったのならば被害者に謝罪する姿勢を子供に見せることが必要だろう。
もちろん時として、教育上の必要性から社会の理不尽さ・不合理さを教える必要もあるだろう。しかし、その「理不尽さ」や「不合理さ」に子供が疑問を持ったとき、「理不尽・不合理は無くせない」で思考停止して、「理不尽さ」「不合理さ」を無くそうとしない(させない)とするのならば、それは大人が「仕方のない悪」として目を瞑っていたものをますます増やす結果になりかねない。

さて、ここで「親」という存在と「教師」という存在が明確に異なる点を提示しておこう。
それは"「教えること」にプロであるかアマチュアであるか、だろう。
例えば「親」は、自らが「教師」で無い限りは別の職業を持っていて、子供を学校に送り出せば「職業人」としての「親」の姿がある。その「職業」は例えばサラリーマンであったり医師であったり警察官であったり……と様々だが、仕事に徹する間は「教育者」としての"仮面"は存在せず、一日において「教育」の占める割合は限られる。
しかし、「教師」は自らの子を学校に送り出した後も、子供に接し、教えることが待っている。出勤前と退勤後は自らの子を、出勤後から退勤前は他人の子を「教育」しているわけだ。つまり、必然的に「教師」は教育において「プロ」や「ベテラン」になる。もちろん、子供のいない教師もいるが、それでも教師は「教育」という分野を自らの生きる「糧」にしていて、それは自らが退職しない限り(「教育」という現場から離れない限り)は「教育」に接する時間が比較的長くなるため、「プロ」「ベテラン」になるだろう。

つまり、教師は本来ならば教育の「プロ」でなければならない。
それは、自らの得意とする「国語」「数学」といった学術的分野ではなく、"人として"の教育においても然りだ。

だが、果たして大津いじめ事件を始めとする様々な事件における教師の行動は、子供たちの「手本」として適切な行動であっただろうか?

「やりすぎんなよ」といじめを放置し、生徒を自殺にまで追い込んだ教師。
暴言や暴力で生徒を追い詰め自殺させ、自らが顧問を務めるバスケ部を無期限活動停止にした教師。
罵声を浴びせ、平手打ちを繰り返して生徒を痛めつける教師。

「ニュースになった事件」だけでもこの有り様。自分が経験した事件も振り返ると、加害者は「教育者の仮面を被った悪魔」ではないかと思えてくるほどだ。いや、なぜ教師になれたのか疑問を呈するレベルだ。

本来ならば、子供の手本として、子供たちを教え導くことが自らの責務であるはずの教師たちが、このような失態。もちろん、世のすべての教師がこのような「悪魔」であるとは言わない。私の会ってきた教師の中にも尊敬する人たちはいる。
しかし、その彼ら「善良な教師」も子供たちの「手本」として、「教師の仮面を被った悪魔」を淘汰して欲しいものだ。

今の教師たちの行動を子供が真似すればどうなるか、想像に難くない。
「力による解決」を教えられた子供たちはまず、自らと同じ立場の友人か、下の立場の後輩に「暴力」を振るう。「悪を止めない教師」の姿を見た子供たちはその「暴力」を止めず、「暴力」はエスカレートする。やがて「暴力」は友人や後輩どころか、「学校」という殻を破って社会に進出する。
社会に出た「暴力的な子供」はやがて社会を担う存在になる。その社会を担う存在になった彼らは「力による解決」を躊躇しなくなる──。

これが極端な例であることは承知だが、「治安悪化」と嘆かれる現状に、教育の影響がひとえに「無い」とは言えないのではないだろうか?
もし、今までに一度でも暴力を振るったことの教師がいるとしたら、自らの「暴力」という非道な行為を詫び、「教育者」という存在を辞して再発を防ぐ必要があるだろう。

教育は「国家百年の計」と言われる存在である。
この瞬間は問題なくても、10年後、50年後、100年後……「教育者による暴力」の波及効果が及ぼした結果は、恐ろしいものになるだろう。

2014年1月19日

輸送艦<おおすみ>衝突事故と海上衝突予防法


新年が明けて間もない平成26年1月15日の朝、痛ましい事故が瀬戸内海で起きた。

海上自衛隊第1輸送隊所属の輸送艦<おおすみ>にプレジャーボート<とびうお>が衝突し、<とびうお>船長と乗客1名の計2名が死亡した。

<おおすみ>は三井造船玉野工場での定期整備を受けるために海上自衛隊呉基地を出航し、事故海域を通過していた。その<おおすみ>に対し<とびうお>が接触した形で事故が発生した模様だが、マスコミの報道には疑問を覚える。
<とびうお>の乗客の証言による「推測の航路」ばかり取り上げ、あたかも<おおすみ>が<とびうお>に突っ込んでいったかのような報道を、テレビ局各社や新聞各紙は行っている。<おおすみ>乗員の証言(防衛秘密等で難しいかもしれないが)やAIS(自動船舶識別装置)の記録を一切取り上げずに、だ。これではまるで<おおすみ>に非があるかのようだ。
この報道体制は、かつて護衛艦<あたご>と漁船が衝突した「イージス艦衝突事故」の際に、まるで海上自衛隊側に非があるかのように報道し、結果として海上自衛隊側の無罪が証明されたにも関わらず、その無罪を殆ど報道していないマスコミ各社の体質を顕著に表している。

そもそも輸送艦<おおすみ>は全長178m、全幅25.8m、基準排水量8,900トンのかつてマスコミ各社が「空母型」と取り上げたほど巨大な艦だ。操舵は簡単ではなく、回頭を行っても反応までタイムラグが大きいことは簡単に推測できる。
一方でプレジャーボート<とびうお>の正確な大きさは分からないが、「プレジャーボート」というからには数メートル程度であると推測するのが妥当だろう。ならば、操舵の反応性は<おおすみ>よりも早いことは想像に難くない。
つまり、<おおすみ>は<とびうお>を避けることも、<とびうお>に突っ込むことも難しい一方で、<とびうお>は<おおすみ>を避けることも、<おおすみ>に突っ込むことも簡単である、ということだ。

もちろん、航海でのルールの一つである「スターボード艇優先の原則」には船の大小や回避の可能性は関係ないが、そもそも<とびうお>は<おおすみ>の左舷に衝突した、つまり<とびうお>は<おおすみ>の左舷を航行していた。つまりスターボード艇優先の元速を継承した海上における衝突の予防のための国際規則に関する条約(COLREG条約)や海上衝突予防法といった観点から、<とびうお>に責任があると言って良いのではないだろうか?


また、目撃証言によれば<おおすみ>は衝突前に汽笛2回と汽笛5回を鳴らしたとのことだ。
前者の汽笛2回に関しては、海上衝突予防法第34条二「進路を左に転じている場合は、短音を2回鳴らすこと」による汽笛であると推測できる。後者の汽笛5回に関しては同法同条第5項「互いに他の船舶の視野の内にある船舶が互いに接近する場合において、船舶は、他の船舶の意図若しくは動作を理解することができないとき、又は他の船舶が衝突を避けるために十分な動作をとつていることについて疑いがあるときは、直ちに急速に短音を五回以上鳴らすことにより汽笛信号を行わなければならない」による汽笛であろう。これらの<おおすみ>の行動は海上衝突予防法に基づいた行動であり、<おおすみ>は十分に<とびうお>に対し警告を発していた。しかし<とびうお>は返答義務があるにも関わらず返答しなかった。まさか<おおすみ>の汽笛が聞こえなかった、ということはないだろう。
また、<とびうお>乗客の証言も併せて考慮すれば、<とびうお>は<おおすみ>の存在を把握し、確認していたということだ。


そして<おおすみ>の左舷を航行していた<とびうお>は<おおすみ>に衝突した。
スターボード艇優先の原則により回避義務のあった<とびうお>が、<おおすみ>の汽笛や存在を無視して<おおすみ>に衝突した。
<とびうお>にどのような意図があったかは不明だが、しかし<とびうお>に責任があったことは事実だろう。


死者のご冥福を祈るとともに、海の安全を心より祈念する。
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