2012年9月25日

「尖閣諸島を守るために防衛力を持とう」というリアリストが一番怖い


あまりにも阿呆な記事をガジェット通信で見つけたので引用・批評をさせて頂きます。



今回はamamakoさんのブログ『斜め上から目線』からご寄稿いただきました。
斜体が引用元の記事で、途中に入る、太字が自分の意見です。

※この記事の著作権は配属元に属します。


今回はamamakoさんのブログ『斜め上から目線』からご寄稿いただきました。

■「尖閣諸島を守るために防衛力を持とう」というリアリストが一番怖い


前回の記事*1に多数アクセス・コメントいただき有り難うございます。*1:「「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」なんていうのも思い込みである」2012年9月19日『斜め上から目線』
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20120919/1348006047


しかし多くのコメントを読む限り、前回の記事で書いたことがきちんと理解されているとはいえない状況のようです。そこで今回の記事では、それらのコメントの代表的なものにお答えしていき、もう一度前回の記事の趣旨について説明するとともに、最後に現在の僕の主張について改めて説明します。

●「防衛力」とは、「人を殺す武力」のことであり、そしてそれは自分たちにも牙をむく

「シートベルトしてれば怪我しない」という主張を仮定してシートベルト着用義務を批判してるって感じかね?https://twitter.com/kudoh/status/248337401729130496

アコムしていても泥棒に入られるからといって、鍵や扉が必要ではない。という理屈にはならんでしょうが。https://twitter.com/toronei_sub/status/248282004020400128

最初のパラグラフだけ読んで「これは『東日本大震災級の津波が来たら防げないから防波堤なんぞいらない』という理屈と同じだ」と思ったからそれ以降は読まなかった。出発点が間違ってれば全部だめ。http://twitter.com/dadaemonsan/status/248305229697794049

大規模な津波に防波堤は「効果が薄いので」無意味とか言うアホの同類。http://b.hatena.ne.jp/konstantinos/20120919#bookmark-111596818


このような勘違いを産まないために、具体例を挙げたつもりだったのですが、伝わらなかったようなので。

このコメントをした人達は「防衛力」というものをシートベルトや防波堤と同じような存在と捉えているみたいですが、これらのものと防衛力には大きく違う点が二点あります。

まず一点目は

○防衛力は「人を殺す」もの
ということです。


防波堤やシートベルトは、高波のエネルギーや事故のエネルギーを吸収することによって人々を守ります。では、防衛力は一体何によって防衛をするのか?それは、人を殺すことです。敵の兵隊に銃弾や砲弾を浴びせ、息の根を止めるものなのです。

つまり、防衛力とはそれが使われている時点で既に犠牲を生んでいるのです。ただ、その犠牲を「自国民」から「他国民」に転移させているにすぎません。犠牲を防ぐシートベルトや防波堤とは全く異なるものです。


使われないための防衛力、所謂「抑止力」としての防衛力という観点からしたら、「抑止力」として使われているものの、誰も犠牲になっていない。他国の「侵攻しよう」というエネルギーを吸収している点では、寧ろ、犠牲を防ぐシートベルトや防波堤と同じと捉えても良いだろう。

日本に侵攻してくる敵兵士に弾を浴びせ、息の根を止めるのは当然だ。そうしなければ、殺されるのは我々だ。生き残るために、殺す。ましてや日本に侵攻して来ているのだから。

次に二点目。

○防衛力は、時に自国民に牙をむく

防波堤やシートベルトを利用して、それが守るはずの人々を殺すことが可能か?よほど変わった手段を用いない限り不可能でしょう。しかし、防衛力の場合はそれは極めて簡単です。敵の方に向いていた銃口を180度回転させればいいだけなのですから。そして事実、中国の防衛力である人民解放軍は、銃口を180度回転させて、天安門において自国民を虐殺したのです。

隣の中国に、国民を虐殺する人民解放軍という軍隊があると自ら言っているにも関わらず、防衛力を持つな、と。ついでに言えば、人民解放軍は防衛力だけでなく、侵攻軍としての役割もある。自衛隊に後者の役割はないが。


●「憲法9条を守ってさえいれば大丈夫」ではもちろんない。憲法9条を守って、さらに平和のために努力をしないとだめ

ましてや「軍備放棄すれば他国が攻めてくるはずがない」なんてのはまったくの妄想ですよねhttp://b.hatena.ne.jp/bengal00/20120919#bookmark-111596818


この人の考えは考慮するに値しない。お花畑タイプの人間だ。http://twitter.com/ykdrm1/status/248257466062741504


だからって平和憲法も幻想だけど。http://twitter.com/bamo02/status/248282376348766208


「現実の想定外」を指摘してるけど「理想の想定外」にはどう対応するの?whttp://twitter.com/tetsunotsuki/status/248290448295198720



どうやらこの人達は、前回の記事を「現実主義者の示す現実は空想だけど、理想主義者の示す空想(世界平和)は現実である」というように誤読しているようです。だから「理想の想定外」という言葉が出てくるのでしょう。理想の思い通りになっていないのは、理想なら当たり前のことなのに。

よく理解できないのは、俺の頭が悪いからなのか。それともこの筆者の日本語が支離滅裂だからなのか。恐らく後者だと思うが。
もっとも、前回の記事を読んでいないが、それでもある程度は理解できるはずだ。しかし、この段落はさっぱり理解できない。

リアリズムと防衛を学ぶ ≫ 「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例*2の著者もそうですが、現実主義者たちはよく、護憲派の左派に対して「彼らは憲法9条を守っていればそれだけで幸せになると思ってる」というような批判をします。

そもそも、憲法9条を守って幸せになれるの?守った時点で幸せから逆走している様に見えるが。

*2: 「「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例」2012年9月18日『リアリズムと防衛を学ぶ』
http://riabou.net/archives/43


ですが、もし憲法9条を守っているだけで平和になると左派が思っているならば、一体なぜ左派は別に日本が軍隊を送ってないベトナム戦争やその他様々な紛争に対して反対の声を挙げ、難民などに支援をし*3、人権擁護の活動をしてきた*4のでしょう?*3:ペシャワール会
http://www.jca.apc.org/beheiren/
*4:日本弁護士連合会  人権擁護活動
http://www.nichibenren.or.jp/activity/human.html


答えは、憲法9条という理想を守ろうと頑張ってきた人達こそが、その困難さを理解していたからです。理解した上で、では、憲法9条という理想をどうすれば他者・他国と共有できるか、そのためには人々が圧迫と隷従から解放され、自由に生きられることが必要であるとし、そのための努力を行なってきたのです。まさに「冷静な危機感に基づいた具体的な努力」と言えるでしょう。

>答えは、憲法9条という理想を守ろうと頑張ってきた人達こそが、その困難さを理解していた

>答えは、憲法9条という理想を守ろうと頑張ってきた人達こそが、その困難さを理解していた  

>答えは、憲法9条という理想を守ろうと頑張ってきた人達こそが、その困難さを理解していた  

゚(∀) ゚ エッ?

憲法9条は理想、と書いてあるように見えるのは気のせいだろうか。理想を現実に持ち込むのはそもそも無理な話だし、無理やり「持ち込んだつもり」にしようとしても、それに無理があるのは明白。
「憲法9条を守って防衛力を放棄」という、彼らの「理想(笑)」を現実のものとすれば、我々日本人が圧迫と隷従の被害に遭い、自由に生きられることを妨げられることになる。

「冷静な危機感に基づいた具体的な努力」ではなく、「皆無な想像力に基づいた無駄な行動」であろう。


それに対して現実主義者は一体どうだったか?「戦争の被害を抑えるためには防衛力は必要不可欠。そしてその上で冷静な外交を」と彼らは言います。ですが、防衛力によって被害を抑えるためには、他国の軍隊より多くの力を持っていなければなりませんから、当然防衛力によって被害を抑えようとする行為は軍拡につながります。しかし他国も同じように考えるから、他国も軍拡をすることによって自らの防衛力を大きくしようとします。これが、現実主義者の思い込む現実の当然の帰結です。ところがそれに対して現実主義者は「軍拡によって周辺に脅威をふりまくのはやめろ」と言うのです。

そもそも、「戦争をしないために防衛力(軍事力)は必要不可欠。外交のテーブルにおける発言力は軍事力に比例するから、我が国の発言力を上げるためにも防衛力を」というのが俺の持論なのだが。
そもそも、防衛力を上げる=軍拡、というのは無知な発想。確かに、ある程度の拡充は必要だが、絶対にこの構図が成立する、と思い込んでいるというのは阿呆だ。
例えば、空母(例として、アドミラル・クズネツォフ級航空巡洋艦と艦上機)と、イージス護衛艦2隻の場合、費用や攻撃力として見たときは前者の方が大きいだろうが、防衛力として考えたときは後者の方が大きいだろう。
なぜなら、イージス護衛艦というのは、艦隊防空や(特に日本のイージス艦は)弾道ミサイル防衛(BMD)を念頭に置いて設計された艦船だからだ。

一方、空母というのは、対空・対艦・対地戦闘or攻撃を行う戦闘機や攻撃機を輸送し、射出するのが最も大きな任務だ。つまり、攻撃力としては絶大だが、防衛力としてはイージス艦に劣るといっても良い。

また、日本の場合、周りを海に囲まれた海洋国家だから、イージス艦と対艦攻撃機(戦闘機)、対艦ミサイル・対空ミサイルを用いて防衛に専念すれば良い。防衛戦の場合、島嶼奪還でも無ければ空母や揚陸艦は必要とされないから、相手の攻撃力以下の防衛力で日本を防衛できる。


例:「永遠の軍拡競争に」=前原外相、中国をけん制*5*5:「「永遠の軍拡競争に」=前原外相、中国をけん制」2011年3月6日 『許すな!憲法改悪・市民連絡会』
http://web-kenpou.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-0096.html


これのどこが一体「冷静な危機感」に基づいた「具体的な努力」なんでしょう?「自国の軍拡はきれいな軍拡だから良い。他国の軍拡は危険な軍拡だから駄目」、そう主張することのどこに「冷静さ」があるんでしょう?どこに「具体的な努力」があるんでしょう?

ある程度軍事に関して知識がないのに、上記の意見を述べるというのは。無知発見器か、この筆者のブログは。

もし現実主義者が冷静さを持って具体的な努力をするならば、それは「どこの国も防衛力を持っていて当然だから、他国の軍拡には文句を言わない。そのかわり、他国の軍拡より大きな規模で軍拡を行うことによって、自国の防衛力を保持する」というものでしかありえないでしょう。その帰結は、果てしない軍拡競争ですが、現実主義者が思い込む現実に基づいて「冷静に具体的な努力」をするならそれしかありません。ところが、実際の現実主義者はそのようなことは言わず、ただ「自国の軍拡は良い軍拡だけど、他国の軍拡は悪い軍拡!」と騒ぎ立てれば、それで他国は軍拡を止め、自国の防衛力が維持されると思い込んでいる。僕からすれば、そちらの方が余程お花畑です。

>「他国の軍拡より大きな規模で軍拡を行うことによって、自国の防衛力を保持する」というものでしかありえないでしょう。 」
別にこれだけが具体的な努力ではないのですが、ね。先程のイージス艦の話にもあったとおりですよ。
最も、軍拡にも良し悪しがあるでしょうが、ね。アメリカやロシア、中国etcが核兵器をこれ以上増産したり、空母を闇雲に建造したりするのは嫌な気がします。しかし、例えばスイスの様に、自国防衛のために全家庭にライフルを支給するような、防衛に徹した軍拡ならば良いのではないかと思います。

●「領土」と「人命」の交換を迫られた時、前者を取り後者を捨てるのが現実主義者


最後に、勘違いの指摘というよりはコメント全体に対する反論を。


防衛力の増強を批判するとこう反論する人がいます。「ならば君は他国に自国の領土が蹂躙され、自国民が虐殺されてもいいのか!?」と。


ですがその場合、例え防衛力を持っていても、結果は自国の防衛力により、他国の人々が殺されるのです。それは、虐殺の否定ではありません。ただ、虐殺されるのが「自国民」から「他国民」に変わっただけです。

自国の防衛力を持って、侵攻してくる他国軍を制するのは当然だ。これを虐殺と言うとは。
「領土」と「人命」の交換を迫られないようにするための防衛力だが、な。これらの迫られるということは防衛力を放棄した瞬間だと思うが。
否、今の段階でも、中国が空母を就役させようとしているわけで、交換を迫られる可能性も無いとは言い切れない、か。
つまり、防衛力の拡充をすれば交換を迫られることはなくなるだろう。

そして更に言えば、同じようなことは他国も考えています。「防衛力を持たなければ、自国の領土が蹂躙され、自国民が虐殺される」と。だから他国も防衛力を持つ。結果両国の防衛力はどんどん増大していき、そんな中でふとした事件が偶発的に起きれば、それは他国民と自国民、両国が虐殺されることにつながります。だって、他国も虐殺されるのが「自国民」から「他国民」に変わる結果を選ぼうとするのですから。他国にとっての「他国民」は自国民です。

他国が防衛力を持つことは否定しないのか?
自国民が虐殺されないための軍事力、そうだろ?自国民が…日本人が虐殺されるのが嫌なら、防衛力たる自衛隊はあって当然だ。

ここからは、机上空論ではなく、具体的な事例について考えましょう。僕がリアリズムと防衛を学ぶ ≫ 「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例という文章を読んだ時、一番腹が立ったのは、この文章が現実主義者の立場から書かれ、フォークランド紛争や湾岸戦争といった過去の事例を紹介して持論を主張しながら、今起きていて、そして、この持論が必ず援用される、というか、その現在進行形で発生している実例のために持論を主張しているはずなのに、その実例自体に対しては一切文章内で明示していないという。点です。このブログの著者は現実主義者を名乗っているのに、一番見つめなければいけない現実には、触れようとしません。

フォークランド紛争や湾岸戦争が過去の事例として取り上げられるのを見ると、時代の流れを感じる。ただ、それ以降の文が支離滅裂過ぎて読めない。

はっきり言いましょう、リアリズムと防衛を学ぶ ≫ 「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例は、尖閣諸島・魚釣島の領土問題を念頭に置いて書かれたものでしょう?中国との領土問題について、「戦争なんて起こりっこない」と思っている人々に対し「『戦争なんて起こるわけがない』と思っていても戦争は起こりうる。だから中国との戦争も起こりうる」と言い、恐怖を煽った上で、「だから中国に対する防衛力を持ち、戦争に備えなければならない」と主張しているのです。

わざわざ尖閣諸島と魚釣島を別々に書かなくても良いだろうと思うが、中国が空母を建造し、漁業監視船や海洋監視船を尖閣諸島に派遣している今、防衛力を持たなければ、尖閣諸島が奪われるのは明白。違ったか?

しかし、それによって生じるのは一体何か?フォークランド紛争と同じ、戦争、人と人との殺し合いです。尖閣諸島・魚釣島において、日本の防衛力として指名された人間が、中国の人を殺す。あるいは、その反対のことも起こりうるかもしれません。結果として、「日本固有の領土」は守られるかもしれませんが、それは人命と引換になされることです。現実主義者が言う「防衛力の行使」とは、人間同士に殺し合いをさせ、人を殺した上で、その引き換えに、「領土」を守ることなのです。

とりあえず、戦争になる可能性は高いとはまだ言えない。睨み合いだろう。そうか、海上保安官の視線は中国人を殺すくらいに強いのか。
別に、人民解放軍が侵攻してきた場合、日本の防衛力として指名された人間(自衛官)が人民解放軍を制したところで何か問題が起きるのだろうか。
自衛官が殺される可能性も十分にある。なら、それを防ぐために、イージス艦や戦闘機を尖閣諸島に展開させれば良い。防衛力の強化もその為に行う。
自衛官が殺されるのは嫌だ、と思うならば、外交力を上げる必要がある。ただし、外交力は何度も言うが、軍事力(防衛力)に比例する。世界最強の軍事力を有するアメリカが世界最高の外交力を有するように。

しかしそのようなシナリオに対して僕ははっきりとNOをつきつけます。もし、尖閣諸島・魚釣島において、人と人が殺し合いになる、戦争・紛争のような状態になるならば、やるべきことは「防衛力の整備・行使」ではありません。尖閣諸島・魚釣島から撤退することです。そしてその上で、話し合いにより問題の収集・解決を選ぶべきです。このような立場はおそらく現実主義者からすれば「弱腰」なのでしょう。しかしそれを選ばなければ起きる帰結が「人と人との殺し合い」なんですから、僕ははっきりと撤退を主張します。

そうか、尖閣諸島から撤退か。中国人に占領させるのか。

悪いが、それは御免だ。
尖閣諸島を中国に譲れば、次は八重山諸島、宮古諸島、沖縄諸島、奄美群島、トカラ列島、大隅諸島や大東諸島といった南西諸島が、その次に九州が占領されることになるだろう。
外交のテーブルで「妥協を示す」ということは、相手に「もっとこちらは譲りますよ」という誤ったメッセージを送りかねない。

そもそも、話し合いにより問題の収拾・解決をしたいなら、それに必要な外交力というものがある。しかし、その外交力は軍事力に比例する。大事だから何度でも言う。

更に言いましょう。このような僕の主張に対し「領土は時に人命より大事である」と批判する人もいるかもしれません。だったら、そういう風に声高に主張する人のみが実際に殺し合いの現場に行き、他人に殺されてくればいいじゃないですか。僕が属する日本という国家を巻き込まず、勝手に殺されてくればいい。ですが、「防衛力」を声高に主張する現実主義者は、しかし実際に戦場にいく覚悟はほとんどの人がないでしょう。現実主義者なのだから、彼らこそが、人と人が殺し合うという〈現実〉に接しなければならないのに。

領土も人命も守る、その為の防衛力だ。領土も人命も大事だから、「どちらが上」とランクを付けられない。「領土>人命」という考え方もあるだろうが、その考え方の人間を「覚悟のない臆病者」というレッテル貼りをするとは。「殺されれば良い」と言うとは。上で人権がどうたら言っている人間の発言とは思えない。

少なくとも僕は、戦場になった尖閣諸島・魚釣島に行き、そこで他人と殺しあう覚悟はない臆病者です。だから僕は、「防衛力」という美辞麗句を用いながら、しかし実際は人々に殺し合いをさせようとする現実主義者たちが怖いし、そのような人々に同意することはできません。

防衛力、という単語が美辞麗句とは思えないが、別に殺し合いをさせたいとは思わない。
当たり前だが、戦死する自衛官や兵士にも家族や友人、故郷がある。亡くなれば、もう会えない人や見られない景色、悲しむ人々がいるのは事実だ。

しかし、防衛力を放棄すれば、日本が侵攻されて殺されるのは、自衛官(そもそも自衛隊が解散になり自衛官という職業が無くなっているか?)だけでなく、我々もその殺される対象になるであろう。

もっとも、国防に犠牲は付き物だし、将来、日中で武力衝突が起きた場合、悲しいことに、自衛官が死ぬ可能性だって十分にあり得る。
もちろん、武力衝突を回避する必要はあるだろう。だが、回避する為の話し合いや、侵攻させない抑止力として、防衛力は必要不可欠なのだ。
『「領土」と「人命」の交換を迫られたら~』『尖閣で戦争・紛争状態になったら~』と言うが、それを回避するのも、防衛力だ。
そして、防衛力を批判する人も守るのが、自衛隊だ。


さて、元の文章が長いこともありましたが、とても長い記事になってしまいました。
ご意見、ご感想がありましたら是非ともいただけると幸いです。
Blogger Template by Clairvo